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【教師だった私へ②】教師1年目。 当たり前が当たり前じゃないことを知り、やりがいを貰う。

目次

はじめに。退職を目の前に。

Kurin(くりん)です。

2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
ちょうど内定の連絡を頂いた頃、次年度の希望調査が行われ、

今年度末をもって退職する

ということを校長に伝えました。

そこから早いもので、4月も目前。
教師としての出勤も既に終え、入職の準備も完了。
あとは会社員としての出勤を待つのみです。

いよいよ新しい世界に飛び込もうとしている私ですが、やはり感慨深い気持ちにはなるものです。
今回は12年間教師として歩んできた自分自身のことを記事にしたいと思います。

当ブログは

教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方

のための転職情報に特化したブログです。
”教師から民間企業への転職”を実現するための役立つ情報を掲載していますので、よければこちらも御覧ください。

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さて、この記事はそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、退職間近の私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。

 

教師1年目。
当たり前が当たり前じゃないことを知り、やりがいを貰う。

予想通り、教育委員会から電話があった。
赴任する学校は少し予想外であった。

実家から3時間以上離れた小さな海辺の町の高校。
大学生活4年間の一人暮らしを終え、実家に戻ったのも束の間、またすぐに一人暮らしが確定した。
幸い自動車は学生時代に購入していたため、移動を苦にすることはなかったが電話の次の日に赴任校へ赴き、打ち合わせと入居する部屋を決めた。

4月1日。
生徒ではない立場で初めて学校に通う。
赴任した講師や教諭が1つの部屋に集められ、その中に見たことがあるように思う顔があった。
高校の先輩だっただろうか?そう考えていると彼の名前が呼ばれた。

私がしていたスポーツで中学・高校とよく対戦した他校の生徒だった。

彼も私を覚えてくれていた。
彼は教員採用試験に合格し、新規採用の教諭として赴任していた。
当時は同じぐらいのレベルのライバル、今は教諭と講師。

できることなんて変わらないのに、差を感じた。
同じスポーツをしていたこともあり、顧問も同じクラブだった。
今振り返ると、大学を卒業したての教諭と講師に1つのクラブを担当させるのは狂気の沙汰だ。
長年そのスポーツをしてきたからといって、私には人に教えられるほどの技術も知識もなかった。
その一方で、彼は積極的に指導をしていた。

彼がどんな指導をしていたのかは覚えていないが、今思えば大したことなかったと思う。
気丈に振る舞っていただけなのかもしれないが、それでも私には知識も技術もあるように見えた。
ここでも差をつけられている気がした。

始業式が終わり、初めての授業。
小さな漁師町で、地域の子ども達が通う。
大学への進学を考える生徒は隣町の地域の進学校へ電車で通っていた。
ここに通うのは、勉強に関心のない者が多い。

そのため学力面で苦しい生徒も多く、習熟度別でクラスを半分に分けて授業が展開されていた。
私が担当したのは勉強が苦手は方のクラスだった。

私語、立ち歩き、居眠り、服装の乱れ、スマホの使用…。
授業時間を静かに座って、教師の話を聞き、ノートを取る、これができない生徒がこんなにも多いことを知らなかった。
私が通っていた学校でもそういう生徒はいるのはいたが、野球部(練習大変だったんだね)を除けば数人だった。

授業はちゃんと受けなければならない。
その”ちゃんと”の意味も意義も分からない生徒たちに向かって授業をした。
”ちゃんと”できないことに腹が立った。
だから授業の時間は楽しくなかった。

できないことが理解できず、また理解しようともしていなかったから、度々生徒と衝突もした。
生徒にも腹が立ったが、うまく関係を築けない自分にも腹がたった。

腹が立つのはクラブ指導も一緒だった。
隣では熱心に教えている同級生。彼は男子、私は女子の担当だった。
彼も行き過ぎた厳しさが合ったが、当時はそれに負けてはならないと思った。
だから私も厳しく接した。

夏の大会の日、生徒にベンチに入って欲しくないと言われた。
副顧問の先生の方が安心して見てもらえる、と。
厳しさは私には合わない。そこからクラブ指導のあり方が変わった。

とにかく生徒に寄り添った。
一緒に悩み、一緒に考え、少しずつ前進していった。
叱咤することもあるが、前向きな発言を心掛けた。
そのおかげが、生徒とも深い信頼関係を築くことができた。

教師であることを認めてもらっている気がした。
彼女たちと過ごす日々が私の支えになっていた。

教師になった1年目に彼女たちとの出会いがなければ、もっと早々に教師を辞めていたかもしれない。
以降の教師生活では、彼女たちに負けない強い関係を築くことが1つの目標になった。
教師としてのやりがいを貰った。

初めての授業、初めてのクラブ指導、初めての書類作成。
月並みな表現だが、全ての業務に”初めて”がつき、荒削りだしミスも非常に多かった。
今振り返ると、なんて未熟だったんだろうと思う。

今の指導力で戻れるなら、生徒たちとももっと違った向き合い方ができたのかもしれない。
そう思いながらも今戻ったとしても、あんなに深い信頼関係で、あんなに熱意を持って働けなかったとも思う。

お世話になった同僚のことは今でも覚えている。
難しい生徒の指導も、学校行事も教職員全員で向き合って取り組んだ。

文化祭で教職員から何か生徒たちにしてあげられないか、ということになり、それを私が担当することになった。
教師の若い頃の写真を展示し、どの写真が誰かを当てるクイズを提案したところ、多くの方が協力してくださった。

特に事務の方には大変可愛がって頂いた。
その方は今から5年ほど前に病気で亡くなった。
病状が進むにつれて記憶が曖昧になっていったそうだが、私のことはさいごまで覚えていてくれたそうだ。

誰かを育てたという感覚はなく、育ててもらったという思いのほうが強い。
教諭であったならば最低でも3年は継続して勤務できたが、この年の採用試験も最終で不合格。
教師として働きだしても自分には適正がないとつきつけられているようだった。
ただ2年連続の挫折で諦めなかったのは、クラブの生徒たちのおかげだ。

結局、講師である私は1年で、この高校を去ることになった。
次の赴任校は先述した隣町の進学校だった。

さいごに。次回には教師2年目。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
決して落ち着いた学校とは言えない、教師生活最初の勤務校。
だからこそ一生懸命毎日を過ごせたのだと思います。

次回は講師のまま隣町へ異動。
1年目とは違う、ギャップに悩むことになる教師2年目を振り返ります。

 

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