はじめに。退職を目の前に。
Kurin(くりん)です。
2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
ちょうど内定の連絡を頂いた頃、次年度の希望調査が行われ、
今年度末をもって退職する
ということを校長に伝えました。
そこから早いもので、4月も目前。
教師としての出勤も既に終え、入職の準備も完了。
あとは会社員としての出勤を待つのみです。
いよいよ新しい世界に飛び込もうとしている私ですが、やはり感慨深い気持ちにはなるものです。
今回は12年間教師として歩んできた自分自身のことを記事にしたいと思います。
当ブログは
教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方
のための転職情報に特化したブログです。
”教師から民間企業への転職”を実現するための役立つ情報を掲載していますので、よければこちらも御覧ください。
さて、この記事はそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、退職間近の私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。
定時制赴任、講師なのに初めての担任。
1年目、2年目と異動を経験し、3年目に赴任するのは同じ校舎にある定時制。
同じ学校内で全日制から定時制へと異動することになる。
体育館クラブの顧問をしていた私は、18時になると定時制の生徒が体育の授業を受けに体育館へやってくるのを何度も見ていた。
明るい髪色で気だるげに授業を待つ生徒たちがいることを認識していたが、これまでの人生で関わったことのない立場の子ども達だった。
私が通っていた高校にも定時制があり、クラブ終わりに自販機などで鉢合わせになることがあった。
”ヤンキー”のイメージが強く、粗野な子たちなのだろうという印象を持っていた。
また普通の過ごし方をしたなら定時制という選択肢をすることはなく、自分にとっては関わることのない異質な存在という認識であった。
そんな定時制の生徒を自分が受け持つことに戸惑いがあった上に、更に
1学年の担任
であるということが伝えられた。
普通に考えると講師がクラス担任を持つことはない。
しかし私が赴任した定時制は職員が全員で8人、そのうち教頭と養護教諭を抜けば国・社・数・理・英・体育の6教科の担当が1人ずつという構成だった。
しかもその6人は40代後半が1人、50代後半が4人とかなりの高齢で20代前半の私だけが異質であり、何でも引き受けられる(押し付けられる)存在だった。
そのためクラス担任、国語科主任、クラブ顧問、特別活動部部長、生徒指導部部員、入試担当といった数多くの業務を拝命した。
とはいえクラス担任をするのは楽しみでもあった。
やはり教師になったのならば自分のクラスを持って、自分が担任する生徒と深く向き合いたかった。
それが講師のうちからできることはやりがいにも繋がるだろうし、なによりも採用試験でアピールできるものであった。
定時制と呼んでいるが、私が勤務していたのは夜間の定時制で18時にSHRが始まる。
そこから40分の授業が4限行われ、21時半には生徒は下校する。
勤務自体は13時に出勤し、22時頃に退勤という流れ。
定時制は基本期的に4年間を掛けて履修し、卒業していく。
私が勤務した定時制は各学年1クラスであったため、4クラスに国語を教えに行くということになる。
私が担任をする1学年は全員で8人だった。
その8人と入学式の日に対面することになるが、入学式では呼名があるし、初めての自分のクラスの生徒ということもあり、何度も名簿の名前を読み返した。
名簿に書かれる名前だけでも特別な存在に思えた。
これから先、何度も担任を経験をするがいつでも共通する感覚だった。
自分のクラスの生徒は名前だけでも可愛いし、好意的に感じる。
そんな一方的な愛着を持たれた生徒たちは、持っていた定時制の生徒のイメージに反して元気がない印象だった。
問題行動を起こしてしまい全日制にいられなくなった、全日制での生活が合わず不登校になった、高校そのものに通うことができず働き出した後に通っているなど、定時制に通う高校生は何か事情を抱えている場合が多い。
私が勤務した当時は不登校7割、問題行動2割、その他1割というぐらいの比率で、私のクラスも不登校傾向の強い生徒が多かった。
そのため全体的にエネルギーを感じなかった。
ただそういう子は全日制の生活が合わなかっただけで、学ぶ意欲がある生徒もいる。
そんな生徒ひとりひとりに、全日制では送ることのできなかった”高校生活”を経験させてあげられることは私の中でのやりがいと言えるものだった。
国語の授業にも目的ができた。
勤務校の生徒は進学をする生徒が殆どおらず、卒業後は就職をする。
高卒の資格を取るために高校に通っているという目的の生徒がほとんどで、授業も受験に対応したものを展開する意義がなかった。
そのため私は
”社会に出ても恥ずかしくない一般知識を身につけること”
”文章に込められた機微に触れること”
を授業の目標とした。
これは指導要領とは完全にずれたものではあるが、目の前の子たちに何ができるかを考え決めたことだった。
扱う教材も”高校生の時に勉強したことがある”と言うことのできる有名な単元を選んだ。
読解よりも内容の理解を優先し、文章の展開に沿って演じたり、図解したりした。
”道徳の授業みたいだ”と言われることもあったが、私はそれでもいいと思っていた。
文章を読み、何かを感じ取り、それを自分の言葉で表現することを経験させてあげたいと考えていた。
今思えば、この時の”目の前にいる生徒には何が必要なのか”を真剣に考えた経験が国語科教育に対する自分の姿勢を変えたように思う。
生徒から教師としての生き方を学ばせてもらった。
担任をした1学年の生徒との関わりの中で覚えていることがある。
それは私が教師を経験する中で、唯一進路変更をした生徒のことだ。
彼女はどちらかと言うと問題行動が多いタイプで、全日制の全体での学校生活が合わず定時制に入学してきた。
楽な方へ、楽しいと思う方へと誘惑に流されやすいタイプだった。
秋頃、彼女の母親から相談の電話が来た。
彼女は妊娠していた。
相手はその時付き合っていた彼氏だったように思う。
家族で相談した結果、赤ちゃんを堕ろすことに決めたということだった。
その検診や手術のために何日か欠席する日があるとの話もそのやり取りの中であった。
そして手術の日、SHRのために教室へ行くと彼女は登校していた。
中絶手術の後は安静にしていなければならないが、彼女は普通に学校に来て明るく友人と話をしていた。
彼女を教室の外に呼び、体調や登校の経緯を確認すると、
中絶手術は問題なく終わった。体調も元気だから来た。
とあっけらかんとした様子だった。
その様子に言葉が出なかった。
自分の体の中で1つの命が失われたことに対して特に何も感じていないような言動に絶句した。
彼女はその後、学校生活に気持ちも向かなくなり、退学していった。
退学の手続きのために自宅に行ったが、その時も他人事のような様子だった。
彼女の感覚を私は理解できなかった。
今でも理解も共感もすることができないが、彼女の中でも消化しきれない感情が合ったのではないだろうか。
自分の中に宿った赤ちゃんの命を自分の意志で失わせてしまったという事実を、自分ひとりでは抱えきれなくて、いつも通りの生活に好きを求めたのかもしれない。
そこから自分の中で整理ができなくなって、自分自身のことさえも他人事のように捉えてしまうようになったのだろうか。
彼女がその後どのような生活をしているのかは知らないが、幸せに生活していて欲しい。
定時制での担任経験がアピールとなったのか、この年の採用試験に合格することができた。
合計3回の不合格を乗り越え、ついに勝ち取った合格。
この挫折を苦労していて良かったと思う。
ストレートで採用試験に合格した人は、これまでに選考での挫折経験がない人が多いと思う。
それ故に自意識過剰になっている人も少なくない。
採用試験の合格・不合格により教諭か講師かという差が生まれるが、その職名以外に差はない。
教諭だからといって、赴任した後の業務に有利な経験をしているかというとそうではない。
それなのに”採用試験に合格した=教師の仕事ができる人”と勘違いしている人もいる。
3回の採用試験不合格は、私に”お前はまだまだだ”と戒める時間をくれた。
3年で3校の経験、特に定時制での経験は、生徒たちは本当に多種多様な背景を抱えていることを教えてくれた。
これは落ち着いた学校では得られない気づきだと思う。
実家を離れた遠い地での教師生活はこれで終わり。
教諭として赴任するのは実家から30分ほどの県庁所在都市にある学校だった。
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