はじめに。12年間勤めた教師を辞め、民間企業に転職しました。
Kurin(くりん)です。
2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
そして2024年4月1日より、民間企業にて会社員として勤務し始めています。
新しい世界に飛び込み、新たな経験を積み重ねている日々ですが、そんな毎日を繰り返すうちに教師として働いた記憶が薄れていくのは間違いありません。
今の私を築き、転職活動を成功に導いてくれたのは間違いなく12年間の教師経験です。
その日々を忘れたくなくて、”教師だった私へ”というカテゴリーで記事を書いています。
当ブログは
教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方
のための転職情報に特化したブログです。
”教師から民間企業への転職”を実現するための役立つ情報を掲載していますので、よければこちらも御覧ください!
さて、この記事はそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、新たな道に進み始めた私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。
教師12年目。教諭として9年目。
前任校に4年勤めて芽生えた
中堅校で進学実績を上げて、トップ校を追い抜きたい!
母校でクラブ指導をして、強豪校に食い込ませたい!
という最後の望みを実現させるの転勤希望は叶わなかった。
教師生活12年目、私が教師として最後に勤めた学校は再び困難校だった。
しかもこれまで私が勤めたどの学校よりも遠い通勤にもストレスがかかる環境だった。
その学校は教師が厳しく全体を指導する傾向にある印象の学校だったが、近年それでは抑えが効かなくなっている印象をもっていた。
長く勤める教師は理屈ではなく
それが学校だから。
教師の言うことは従うものだ。
というステレオタイプをもとに指導しているイメージもあるし、実際そういう部分を感じた。
”教師が尊敬される時代は終わった”とよく言われるが、私はそれでいいと思っている。
教師のどこを敬意の対象として見ることができるのだろうか。
もちろん教育者として誠実に向き合う姿勢や、子どもたちをいい方向に導こうと思う熱意は尊敬に値すると思うが、そういった情熱は教師だけがもっているわけではないと思う。
また学校にいる時間の方が家庭にいる時間より長く、一種の親代わりとして子育てをしていると言えるのは感謝されるべきところかもしれない。
だからこそ教育に関する専門性と子どもたちを預かる責任感が必要なのだと思う。
この学校にはそれに気づいていた教師はどれだけいただろうか。
話は逸れたが、希望が叶わない異動となってしまった私はなかなか気持ちの切り替えができなかった。
転職を考え出したのはこの転勤の2年前、年齢は34歳になる。
35歳限界説という言葉も聞くため、転職をするのであればラストチャンスだと思った。
その一方で、最後の希望も諦められない自分もいた。
辞めたい気持ちと諦めない気持ちが揺れ動いて、この1年間を全力で働いて決めようと思い立った。
この1年で自分の中でやりきれたと感じたら続けよう。
そうでないなら辞めよう。
学校の全体がどうあれ、隣のクラスがどうあれ、私は私の教育観で、できうる限りの熱意を持って生徒と向き合おうと考えた。
私が担任したのは1学年、1学年の担任をしたのは教師3年目に定時制で経験して以来の2回目だった。
右も左も分からないまだまだ子どもの様子の残る生徒たちに接するのは新鮮だった。
担任として1年間貫いたことは、他の担任が許したとしても、ダメなことはダメだということ。
できて当たり前の話だが、それができていない生徒が大半を占めた。
制服を着られない
立ち歩きをする
無断で早退をする
授業中のスマホの私的使用
ゴミや食べこぼしを床に落とす
人の物を勝手に持っていく
見過ごすことも簡単にできたし、ガミガミ言わない担任は好かれる。
でもここで私が言わないと、残りの人生でこんな当たり前のことを指摘する人はいないだろう。
自分が最後の砦だと、そう言い聞かせて毎日過ごした。
学校での教師は家庭での親の代わり。
親として正すべきところは正してあげたい。
生徒にとっては厳しい運営をする一方で、生徒たちが少しでも居場所を感じられるような取り組みも行った。
クラス通信も定期的に発行。
遠足では自由行動の間にクラスメイトにお土産を買うイベントを企画。
自由に使えるLHRではグラウンドを借りてスポーツをしたり、パーティゲームもした。
終わりのSHR後には基本的に最後の生徒がいなくなるまで教室にいたし、生徒が掃除した後に仕上げで全てを掃き直した。夏休みには1人暑い中、机を全て廊下に出し教室内の壁の汚れを落とした。
最後かもしれないと思うと、話したいことも多くあった。
これからの進路の話
人生選択の話
人との関わり方の話。
そのために人よりも長い時間をかけて準備して資料も作った。
私の真剣な表情に押されてか、生徒たちも真剣に聞いてくれたように思う。
あの時の表情は、私が離任式の後でクラスで話をした時と同じ表情だった。
課題も多い子達だが、私の思いも伝わっているのかもしれない
そう思いながら過ごしたが、モヤモヤは消えなかった。
モヤモヤの原因は過去の自分との比較。
1年目のクラブの生徒との関わりや、初任の勤務校での同僚との日々と比べると本気に慣れていないと感じた。
これが最後かもしれない、全力でやり切ってみようと思っても過去の自分が感じた気持ちを超えられない。
もちろん過去が美化されているだけかもしれない。当時は体調を崩すほど大変だった記憶もある。
でも、もっと全力で教師として生きていたと思う。
そのことを考えるたびに心が折れそうになり、夏休みを利用して求人を見るようになった。
夏休みが明け、残りの期間を過ごす中で考えが改まれば転職活動は終了、教師として生きていく覚悟を決める。
そうでなければ転職活動を行う。
結果は、教師としての熱意が復活することはなかった。
この話を周囲にした時、
情熱がないとかは全く思わない。
よくやっているし、良い教師だと思う。
と口を揃えて言ってくれた。
でも私自身が教師の自分を認められなかった。
だから教師を辞める決心をした。
この学校には心残りはないかと思ったが、ちゃんとあった。
国語科には私より年下の教師が多く、熱意のある2人と現代の国語を担当した。
そこで3人で相談しながら教材研究を進めるのは過去12年間の国語に関わる取り組みで1番楽しかった。
定石に囚われない新たなものを考えたり、時にはそれぞれの譲れないものを言い合うこともあった。真剣に話をするからこそ楽しかった。
最近の生活の中でここだけは、本気でやれているという感覚があった。
教科指導において、新しい扉を開いたと感じました。
協力して作る教材研究がこんなに面白いんだと感じられた時間でした。
クラブ指導も私が顧問をしている部は弱小だったが指導を練った結果、過去で1番の成長を見せてくれた。
どこに連れて行っても上手くなっていると褒めてもらえた。
指導力は過去最高で、どうすれば上手くしてあげれるのかという感覚がわかり始めた。
指導者として、いい感覚を掴めたところで辞めるのは寂しさがあった。
成長する中で生徒たちの表情が変わっていくのが嬉しかったな。
生徒たちが褒めてもらえているのが誇らしかった。
中学校から始めた競技であったため、手放す寂しさを感じる。
転職が確定してから妻に言われたことがある。
立つ鳥跡を濁さず
私はそれだけでなく、惜しまれる鳥になりたいと思った。
だから残せるものは残そうと思い、日々改善できる部分や躓くであろう障壁はできるだけ取り払って出て行こうと考えた。
その結果、ICTに関わる部分で新たに導入して教師の負担を減らしたり、各種マニュアルを完備し誰が見ても操作ができるようにした。
そして、離任の日。
私は惜しまれる教師になれたのだろうか
クラスの生徒たちは驚きもあったが淡々としていた。
ただ日頃は何も言わず帰っていく生徒たちの何人かは1年間ありがとうございました。とちゃんと伝えて帰って行った。
意外だったのは古典を教えに行っていた多学年の生徒が泣きながらやってきたことだった。
勉強が苦手でも教室にいる楽しさや授業を通して誰かと関わる楽しさを感じてほしいと思っていたが、それも伝わっていたのだろうか。
春休み。
机の片付けをしながら、私はいい教師だったのだろうかと何度も考えた。
他の教師と比べて厳しいし、声を荒げることも多かったが、その分気持ちに寄り添った教師だったんじゃないかと思う。
かつて生活指導部に所属していた時に、集団で指導を受けた女子生徒がおり、私も事情聴取に参加していた。
その生徒が卒業を前に担任に
と言っていたそうだ。
そんなことがあったことも忘れてしまっていたが、ちゃんと生徒と向き合える教師だったんだと思えた。
そう考えると、なぜ私が辞めなければならないんだろうと思う。
生徒たちが認めてくれていた部分があったのは心から嬉しかったな。
正直に言って、教職を辞すべき存在は他にもいるのではないだろうか。
でもその人たちの人生を動かすことはできないし、組織全体を改革するのも難しい。
私は私の手の届く範囲の存在のために全力を尽くしたかったが、全力を注いでいるつもりでも自分を認められなくなった。心残りはあるが、引き際なのだと思う。
教師は本当にいい仕事だと思う。
しかし私はそんな仕事を辞めた。
辞めたからには新たな世界を前向きに、満喫しなければならないと思う。
自分が教師であったことを誇りに、これからの人生を歩みたいと思う。
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