高校教師だった亡き父のこと。
Kurin(くりん)です。
当ブログはメインコンテンツとして、
教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
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のための転職に特化した情報を発信しています。
そんなブログを運営している私、Kurin(くりん)は公立高校で12年間教鞭をとっていた元高校教師です。
教科は国語。分掌は進路指導や生活指導を多く担当しました。
教職を辞しましたが、教師という仕事は今でも好きです!
私の教師としての12年間を綴った記事もありますので、よろしければそちらもお読みください。
記事が見つかりませんでした。
今回は家族の話です。父であり、尊敬する教師のひとり。
今回は私の教師生活とは切っても切り離すことのできない存在である父について記したいと思います。
私の父も高校教師でした。
専門は英語、バレー部の顧問をしており、教務部や入試委員長を長く務めました。
私が幼い頃の父はバレー部の顧問として指導に忙しく、休日はほとんど家には居ませんでした。
私が寂しくないようにと母は結構気を揉んだようです。
祖父母も健在でしたし、色々なところに連れて行ってくれたおかげで全く寂しい思いをすることのない幼少期を過ごすことができました。
土日も帰りが遅かったですが、
”今日は〇〇まで言ってきたぞ”、”双子の選手が良くて今年は期待できる”
といった話をよく聞かせてくれました。
幼少期の父との思い出はバレー部の練習に連れて行ってもらい、体育館で過ごしたことです。
お姉さんたちに可愛がってもらったり、体育教官室で野球部の先生にお菓子をもらったりしました。
釣りが好きな父は1人で磯釣りに行ったり、川で鮎釣りに興じたりしていました。小学生になってからはたまに海釣りに連れて行ってもらい、朝早くから磯で過ごしたこともありました。
父が投げた竿の釣り針が私の口に刺さってしまったこともありましたが、いい思い出です。
釣り上げられない程の大物がかかった時に騒ぎながらリールを巻いたこと、海を眺めながら一緒にご飯を食べたことが懐かしい。
退職後にまた釣りに行く約束もしていたのにな…。
家での父は口数が多い方ではなかったですし、話しかけても大体の反応が「ふん」というくらいでした。
そんな父でしたが、当時は彼女だった妻を紹介するために実家に連れてきた時の父は本当に嬉しそうでした。
はじめまして。こけしちゃんです。
お邪魔します。
よろしく。
これからここは君の家だから”ただいま”って言いなさい。
このやりとりがずっと記憶に残っています。
また私がひとりで実家に寄った際の、
なんだ、今日はおまえだけか。
こけしちゃんが来なくて残念だったな。
というやりとりは鉄板ネタとなっていました。
大学を卒業後は、私も父と同じ教師の道に進みましたが学校現場で一緒になることはありませんでした。
しかし至る所で父のことを知っている先生と出会い、
〇〇先生の息子さん?よく似てるねぇ!
お父さんには昔お世話になったんです。
という言葉をどこに異動しても掛けてもらえました。
おかげで困った時にも気にかけてもらえる先生方に囲まれ、心強かったです。
父とは仕事を一緒にしたことはなかったけれど、見えない所でずっと支えられたな。
父はお酒が大好きで、たまにアルコールの匂いがしたそうですが、どの方もその働きっぷりを褒めてくれました。
家では口数は少なかったですが、色々な人に聞けば聞くほど職場では案外おしゃべりだったようです。
ユニークな発言をして面白かった
相談に乗ってくれた
色々と面倒を見て教えてくれた
というエピソードが沢山ありました。
知れば知るほど、仕事をしている時の父を見てみたくなりましたし、父からも話を聞きたくなりました。
そがもうできないのは残念でなりません。
退職を目前に控えた最後の授業では多くの同僚が授業の最後に教室まで来てくれ、花束を渡してもらったそうです。
仕事について多くを語らない父でしたが、その時に撮って貰った写真を見せてくれ、そういう風にこれまでの教師生活を労ってくれたことを嬉しそうに話してくれました。
涙する場面を本当に見たことがなかった父でしたが、その時ばかりは少し泣いたそうです。
父の遺影の近くにはその写真が。
嬉しそうな顔してるよな。
そんな父と教師という仕事について少し話したことがあります。
父がこれまでどの学年の担任をすることが多かったのかを尋ねた時に、3学年が多かったと話とくれました。
そしてそれは自ら希望もしていたそうです。
なぜか尋ねた私に
覚えていてくれるから
と答えたのは忘れられません。
高校生活の3年間、進路によっては最後の学校生活の最後の担任が自分である。
それは生徒たちの記憶に深く残るものであると思います。
てっきり進路指導が楽しいとか、大人になった生徒と接することができるからという理由かと思っていましたが、”思い”に溢れた理由でした。
そういえば若い頃に書いた学級通信を見せてもらった時、用紙にびっしりと父の思いを綴っていたもんな。熱い教師だったんだ。
そんな父の言葉や、父と一緒に働いたことのある同僚の話を受けて私の教師としてのあり方は固まっていった。
父ならばどういう働き方をするだろうか、というのを何度考えたかは数しれない。
間違いなく私の目指すべき教師像だった。
父が亡くなり数年が経った2023年。
私が転職を決めたことを母に打ち明けた時には、父も一時は本気で教師を辞めたがっていたと話してくれました。
それを断念したのは私という子供がいることや、祖父母のことを考えた上だったそうです。
転職を断念したけれど、あの嬉しそうに写真を見せてくれた表情は後悔はなかったように感じます。
私は、そんな父とは異なる道を歩み始めました。
私の心の中では、辞めたい気持ちを封じ込めて教師として生きていく覚悟を決めたとしても、”いい教師生活だった”と言って終われたとも思っています。
それが分かっているだけに、新たに歩み始めた会社員という道を後悔なく、選んでよかったと思えるように日々励みたいと思います。
父にこっちの道もなかなかだったぞ、と言えるように。
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